ニートだった僕の話

こんにちは。

過去に「ニートの僕の話」「続・ニートの僕のお話」という記事を書いていますが、

話や考え方がアップデートされたのと、マッチングアプリで自己紹介をするような機会が増えたので、また書くことにしました。

 

過去記事では

「25歳童貞引きこもり大学中退色白ひょろガリノッポです。」

などと書いていましたが、今は、

「28歳素人童貞引きこもり在宅勤務色白細身ゲーマーです。」

という感じです。今の自分を知ってもらえるような記事とします。

 

最近は「マッチングアプリ備忘録」の記事にある通り、異性関係で苦しんでいるところですが、

卑屈だった気持ちは和らいでいて、どうやって楽しく過ごすかを考えています。

楽しく過ごすための土台として、自立した生活をできるようにするのが今の目標です。

 

すごく大事なことを先に書きます。

それは僕が、

「できることをやる」

「他人と自分を比べすぎない」

この二つがとても重要だと思っているという事です。

こう思えるようになったことが、社会復帰できた理由でもあり、成長した部分です。

 

(ここから先、敬語が崩れた自分語りになります。)

 

ニートの僕のお話(改訂版)

自分は幼少期からゲームやPCが大好きだったが、父親に抑圧されながら育っていた。

父親は社会的には立派でお金もちゃんと稼いでいる人だったが、子どもに対して体罰や暴言のある人で、亭主関白でもあり、家庭はよく揉めていた。

(小学校、中学校、高校1年の頃までは楽しいこともたくさんあったが、ここでは省略)

親の機嫌に振り回される日々に嫌気が差していた高校2年生の頃、担任の先生が鬱になって次々と不登校者が出るようなクラスガチャを引いてしまい、自分も学校を休みがちになり、成績が著しく落ちてしまった。

ゲームやPCを親に没収された暇な時間は本屋で過ごすことが多く、変な自己啓発本に洗脳されたりもしていた。(起業しなさいとか、金持ちの思考とかそういうやつ。)

 

この頃は、親からとにかく離れたいとばかり思っていた。でも楽はしたかった。

ゲームやITに関わる仕事がしたいとも思っていた。

そして、会津大学という地方の公立の大学生となった。

学費の安い公立の大学に進学することを条件に、親の仕送りがある状態で一人暮らしをさせてもらえた。(結果的にそのお金は無駄にするわけだが・・)

 

いろいろ抱えすぎてメンタルが崩壊して、結局大学を中退して、ニートになった。

メンタルが崩壊した要因は、

他人と自分を比べすぎたとか、身の丈にあってない努力をした(できないことをやろうとした)とか、友達関係が気持ち悪かったとか、失恋したとか、会津若松という土地が自分と合わなかったとか、生活力がなかったとか、そもそも昔から受けてたダメージで弱まってたとか、いろいろある。

ほんとはゲームがしたいのに、自己啓発が好きそうな学生会とか起業部とかにいて、アルバイトやボランティア活動もしていて、単位は落としたりしていた。

コンピュータ理工学部なのに、残念ながらプログラミングができなかった。正確には、学習速度が遅くて追いつけなかった。大学に入る前から自由にPCが使えた人たちが羨ましかった。(もちろん、それはただの嫉妬だった。)

何か1つ支えがあればよかったかもしれないが、何もかも上手くいかなかった。

抑えられていた気持ちが爆発し、無限にゲームをやる人間になった。

 

大学に行かなくなって仕事を始めるまでに特にやったゲームは、

マリオカートDSスプラトゥーン、シャドウバース。

それぞれの対戦を何千回、何万回やったかはよく分からない。もちろん他にもいろいろやってたし、動画視聴もしてた。動画を作ることもあった。

いわゆる鬱だったと思っているけど、ゲームで遊ぶことには夢中になれた。

 

大学をサボってるのがバレて父親が家に来た時、

いつも振るわれる暴力に怯えてるだけで、言ってることがさっぱり分からないと伝えた。それからは暴力は少なくなった。

それから、何度か休学と復学を繰り返したが、結局は退学した。

とにかく心が空っぽだった。僕の名前はおじいちゃんが、豊かな心を持ってほしいという意味でつけてくれた名前なのに。

そして、同年代が大学を卒業するような頃、完全にニートになっていた。

 

父親が海外に出張したりしている間に、時間をかけてメンタルを回復させた。

自己啓発本の洗脳も解けた。

(今は当時の記憶が薄れているので、詳しく知りたければ過去記事を見たり、直接聞いてね。)

そして「地域若者サポートステーション」というところにいって、少しずつ社会復帰した。

そういう経験があるから自分は働いてない人を見ても、仕方ないことだよねと共感するし、無理して働かなくていいんじゃないかなという考え方を持っている。

 

ニートだった僕の話

マクドナルドと吉野家のアルバイト(バックレ)しかしたことのなかった僕は、大学休学中には近所で新聞配達のアルバイトをしていた。

新聞配達や運送業はもうやりたくない。

原付のバイクで何度も死んでもおかしくない経験をした。

うちの近所は団地だったのでエレベーターのない5階建てのマンションがたくさんあるのだが、毎日夜中に汗だくになりながら上がったり下がったりして配達していて大変だった。引きこもりニートだったのに。

営業してる社員のおっさんはジジババを騙して契約を取っていたのも嫌だなと思った。

働いてるおっさんたちの人柄は嫌いじゃなかったが、社員にならないかとか言われても断った。

 

復学して退学してからはさっきの「地域若者サポートステーション」というところにいって、仕方なく工場でパソコン組み立て工場で派遣社員として働いた。

過去記事に書いてあるが、これももうやりたくない。

工場で働いている同世代はみんな死んだ目をしてた。コミュニケーションはほぼなく、嫌な仕事を人に押し付けあう職場で、自分はなぜか人がやりたがらないそれを仕方なくやってしまう。

でも誰にも褒められない。

他の人が遅い分、自分は早く作業をしようとして小さなミスをすることがあり、それをおばちゃんにグチグチ言われてしまうこともあった。

 

それ以降の話は記事にしていなかったが、運良く転職して、今の仕事を3年近く続けている。

業種はマッチングアプリには書いてるが、ここには書かない。

助けてくれる人がいたおかげで仕事ができるようになって、お金を稼げるようになっていて、幸運にも、今は充実した気持ちで仕事ができている。

そして余裕が生まれたおかげで、マッチングアプリを始めた。

 

こうやって苦しんでる間に、

「できることをやる」

「他人と自分を比べすぎない」

ことが大事なんだと気づいた。

 

いきなり働き始めるのは無理だから、地域若者サポートステーションに行く。つまり「できることをやる」。嫌なことをやることになったけど、働き始められたわけで。

働きながらも死ぬほどゲームは続けて、愚痴を言ったりして、そしたら助けて貰えたりして。それも「できることをやる」をしていた結果なわけで。

働いて余裕ができて、ポケモンカードで女の人と対戦しておしゃべりして、相手にはパートナーが既にいて、他の出会いを求めてマッチングアプリをやっているのも「できることをやる」をしている。

残念ながら出会いがなかったので風俗に行った。体は気持ちよかったし、少しだけ体の相性というものも知った。それも「できることをやる」だった。

これは、普通に大学を卒業して、普通に恋人と結婚した、お金持ちの男の人なんかと比べたら、惨めかもしれない。でも、「他人と自分を比べすぎない」

だって、自分は「できることをやる」をしていればいいじゃない。相手のいいなぁって思うところを真似できるなら、できることをやればいい!無理すんなってこと!

僕が今この記事を書いてるのだって、書けるから書いてる。

知らない人と少人数で話すのは得意だ。怒鳴られたり、暴力は苦手だ。

人には向き不向きがある。

「フレンズによって得意なこと違うから」ということだ。

というか、生きているだけでも偉いんだ。

「悩んだらまず生きるモードに切り換えてからスタートだ」ということだ。

 

そういう心構えで、これからも生きていこうと思っていることを、ここに記します。